2011年10月19日水曜日

§ 18 Was objektive Einheit des Selbstbewustseins sei

§ 18 Was objektive Einheit des Selbstbewußtseins sei
自己意識の客観的統一であるもの(まだ不確定なことなので接続法�)
 
Die transzendentale Einheit der Apperzeption ist diejenige, durch welche alles in einer Anschauung gegebene Mannigfaltige in einen Begriff vom Objekt vereinigt wird.
統覚の先験的統一はそれによって[全ての一つの直観において与えられた多様]を客観の一つの概念の内に統一させられるもの(直観の多様を客観を理解できるように統一させるもの)である。
伽感の概念=カテゴリー
Sie heißt darum objektiv, und muß von der subjektiven Einheit des Bewußtseins unterschieden werden, die eine Bestimmung des inneren Sinnes ist, dadurch jenes Mannigfaltige der Anschauung zu einer solchen Verbindung empirisch gegeben wird.
それ(統一)はそれゆえ客観的と呼ばれる、[それによって直観のその多様が一つのそのような結合に経験的に与えられる]内なる知覚(内官)の規定であるところの[意識の主観的統一]から区別されなければならない。
内官がなぜ時間だけを想定するのか?純粋持続(ベルクソン)、純粋経験(西田幾多郎)、音楽は時間ではないのか?「心の哲学」の人々は唯物論で心を理解する。
Ob ich mir des Mannigfaltigen als zugleich, oder nacheinander, empirisch bewußt sein könne, kommt auf Umstände, oder empirische Bedingungen, an.
私が多様を同時に、あるいは次々に(契機的に相互に)、経験的に意識できるかどうかは状況や経験的条件次第である。
ここでの条件はその都度その都度の条件
Daher die empirische Einheit des Bewußtseins, durch Assoziation der Vorstellungen, selbst eine Erscheinung betrifft, und ganz zufällig ist.
それゆえ、表象の連関による意識の経験的統一は、一つの現象と関係するそしてそれは全く偶然である。
実在的であって現われているもの。
VerbindungではなくAssosiation連想とは思いつくままに何かと何かとを関係づけること。
現象がなければペガサスはあり得ない。
人間は概念の能力を持っている。知的直観を持っている。
表象そのものはカテゴリーを持たない。
フロギストンと炎が燃える。
数学的カテゴリーと力学的カテゴリー。外延量の原則
Dagegen steht die reine Form der Anschauung in der Zeit, bloß als Anschauung überhaupt, die ein gegebenes Mannigfaltiges enthält, unter der ursprünglichen Einheit des Bewußtseins, lediglich durch die notwendige Beziehung des Mannigfaltigen der Anschauung zum Einen: Ich denke; also durch die reine Synthesis des Verstandes, welche a priori der empirischen zum Grunde liegt.
それに対して時間のうちの直観の純粋形式は一つの与えられた多様を含む直観一般としてのみ、意識の根源的統一のもとに、従って、直観の多様と私は考えるという一つのものとの必然的な関係づけることによって、すなわちアプリオリに根拠があるところの悟性の純粋総合によって、立っている。
Jene Einheit ist allein objektiv gültig; die empirische Einheit der Apperzeption, die wir hier nicht erwägen, und die auch nur von der ersteren, unter gegebenen Bedingungen in concreto, abgeleitet ist, hat nur subjektive Gültigkeit.
かの統一は全く客観的に妥当的である、一方で我々がここで考慮していなくてまた最初ものから与えられた条件の下で具体的に演繹されている統覚の経験的統一は主観的な妥当性のみを持つ。
Einer verbindet die Vorstellung eines gewissen Worts mit einer Sache, der andere mit einer anderen Sache, und die Einheit des Bewußtseins, in dem, was empirisch ist, ist in Ansehung dessen, was gegeben ist, nicht notwendig und allgemein geltend.
或る人が或る事象と特定の語の表象が結び付
け、別の人は別の事象と特定の語の表象を結び付けるのだ、だから、経験的であるものにおける意識の統一が与えられたものに関して必然的ではなく、一般に有効である。
先験的なものにおける意識の統一は必然的である。

2011年10月7日金曜日

§ 17 Der Grundsatz der synthetischen Einheit der Apperzeption ist das oberste Prinzip alles Verstandesgebrauchs

§ 17 Der Grundsatz der synthetischen Einheit der Apperzeption ist das oberste Prinzip alles Verstandesgebrauchs
<統覚の綜合的統一の原則(基礎命題)は全ての悟性使用の最上原理である。>
 
Der oberste Grundsatz der Möglichkeit aller Anschauung in Beziehung auf die Sinnlichkeit war laut der transz. Ästhetik: daß alles Mannigfaltige derselben unter den formalen Bedingungen des Raumes und der Zeit stehe.
<感性との関係における全直観の可能性の最上の原則は、先験的感性学によれば、その全ての多様が時空間の形式的条件の下で立つ(有る)ことであった。>
単数なのでこちらも接続法1式、これからも。感性が時空間の外は認識できないと悟性に語らせる。カントにはintensionalitat指向性フッサールは必要ない。
Der oberste Grundsatz eben derselben in Beziehung auf den Verstand ist: daß alles Mannigfaltige der Anschauung unter Bedingungen der ursprünglich-synthetischen Einheit der Apperzeption stehe*.
<悟性と関係する丁度それ(全直観の可能性の最上の基礎命題)と同等の最上の基礎命題は直観の全ての多様が、統覚の根源的綜合的統一の条件の下でたつであろうことである。間接話法→接続法1式証明されてないから断言していない。>
Unter dem ersteren stehen alle mannigfaltigen Vorstellungen der Anschauung, sofern sie uns gegeben werden, unter dem zweiten sofern sie in einem Bewußtsein müssen verbunden werden können;
<最初のそれ(感性に関する原則)の下では直観の全ての多様な表象が立つ、それが我々に与えられる限りで、2番目のそれ(悟性に関する原則)の下ではsie(表象)が一意識において結ばれることができなければなければならない限りで(全ての多様な表象が立つ)。>
denn ohne das kann nichts dadurch gedacht oder erkannt werden�, weil die gegebenen Vorstellungen den Aktus der Apperzeption, Ich denke, nicht gemein haben�, und dadurch nicht in einem Selbstbewußtsein zusammengefaßt sein würden.
<なぜなら、それ(=意識)なしでは、それ(=表象が与えられること)を通しては何物も考えられず、認識されないから、なぜなら、(それなしではそれによっては)与えられた表象は私は考えるという統覚の作用を共通に持つのではないし、それ(=与えられた表象)を通しては、一つの自己意識において共に総括されないだろうから。>
物が与える原理と意識が与える原理は違う
 
* Der Raum und die Zeit und alle Teile derselben sind Anschauungen, mithin einzelne Vorstellungen mit dem Mannigfaltigen, das sie in sich enthalten (siehe die transz. Ästhetik), mithin nicht bloße Begriffe, durch die eben dasselbe Bewußtsein, als in vielen Vorstellungen, sondern viel Vorstellungen als in einer, und deren Bewußtsein, enthalten, mithin als zusammengesetzt, folglich die Einheit des Bewußtseins, als synthetisch, aber doch ursprünglich angetroffen wird. Diese Einzelnheit derselben ist wichtig in der Anwendung (siehe § 25).
<時空間とその全ての部分は直観であり、従って、sie(時空間とその全部分)を自身に含む多様に関する(先験的感性論を見よ)単一の表象、従って単なる諸概念ではない、それ(諸概念)を通して同じく意識、多くの表象において、それどころか多くの表象その意識に含む、それゆえ共にあった、したがって意識の統一、綜合的なものとして、しかし根源的に見出される。その(意識の統一)のこの単一性は(概念が適応される場合には=)使用(適用)において重要である。>
* Der Raum und die Zeit und alle Teile derselben sind Anschauungen,
空間時間とその全ての部分は直観されたもの(複数)である
mithin einzelne Vorstellungen mit dem Mannigfaltigen, (das sie in sich enthalten (siehe die transz. Ästhetik)),
したがって、表象それ自身のうちに含まれているような多様の各個別の表象である。(多様を含む個別の表象である)(先験的感性論を見よ)
注釈、各個別の表象とは例えばあのペンやこの剣など個別の、直観(時空間)から得た各表象であり、それはすでに多様を含まざるを得ない。
mithin nicht bloße Begriffe, (durch die eben dasselbe Bewußtsein, als in vielen Vorstellungen,(enthaltet) sondern viel Vorstellungen als in einer(Vorstellung), und deren(=Vorstellung) Bewußtsein, enthalten, )
したがって、同一のその意識が多くの諸表象の内に(包括する)単なる諸概念ではない。むしろ諸表象が一つの(表象)や一つの(表象)の意識に含まれているのである。
注釈、意識は今まで経験してきた多くの諸表象を単なる概念(ペン一般)にまとめる働きだけでなく、多様(時空間で経験されるあのペン)を個別の表象(あのペン)としてしかしながらペンの一つであるものとして捕える働きがあるのである。
mithin als zusammengesetzt, folglich die Einheit des Bewußtseins, als synthetisch, aber doch ursprünglich angetroffen wird.
したがって、連関されており、したがって総合するものとしての意識の統一であり、しかしながらそれは根源的に見い出されるのである。
Diese Einzelnheit derselben ist wichtig in der Anwendung (siehe § 25).
その(意識の統一)のこの単一性は(概念が適応される場合には=)使用(適用)において重要である。>
冠詞なし、
多くのペンに対して概念を当てはめて行く。時空間それ自体は
時空間と意識は別のものである。時空間の内、純粋直観は意識なしに唯一のものとしてある。一方で意識はそのほかの時空間および概念に当てはまるものを一つのものとして総括している。
mithin als zusammengesetzt,
folglich die Einheit des Bewußtseins, als synthetisch, aber doch ursprünglich angetroffen wird.
したがって、総括されたものとして、であり、したがって、意識の統一は綜合的に、しかしながら、根源的に見出される。
in et3 mit et3 enthalten sein〜は〜に含有している。
カント読書会のメンバーへ
 
 前回の研究会で検討した註の訳ですが、以下のように訳し、解釈してみたんで一度ご検討ください。破格講文なので、文法的に正確に訳すのはほとんどできないだろうと思います。従って、訳の中に解釈が入ってしまうのはやむを得ないでしょうけど。
 
【訳】
 空間と時間、そのすべての部分は直観されたものである。それゆえ、多様を含む個々の表象である(先験的感性論参照)。だから、それらは単なる概念ではなく、一つの表象に含まれたものとしての多くの表象なのである。同一の意識は、概念によって多くの表象に含まれているものとして見出されるのだから、多くの表象の意識を含んでいる。従って、同一の意識は、概念によって連関されたものそれゆえ意識の統一として見出されるのである。従って、それは綜合的なものではあるが、それでもなお根源的なものとして見出されるのである。表象の個別性は適用において重要である(25節参照)。
概念によって捉えられる。これも私の表象、これも私の・・意識のほうに統一がある。
 
【解釈】
 空間、時間、それらの諸部分は空間、時間の形式の内部にあるものである。空間、時間中にある事物(例えば、ペン)は多様(色、形等々)を含んでいる。これらは、ひとつの空間、時間中を占める事物である。ところが、概念によって捉えられる個々の事物は、その概念によって意識されたものである(例えば、ペンの概念によって、それに対応する対象(個々の知覚されうるペン)が全て意識の対象となる)。その意味では、特定の知覚(例えばペンの知覚)にはすべて不変の私の意識が伴うことになる(その都度、個々のペンの知覚が現れた時に、個々のペンを意識している)。特定の知覚がまとまりのあるものとして知覚されるのは、それを知覚している意識が統一的なものだからである。従って、個々の表象が個別的であるのは、概念の適用においては重要である。
* Der Raum und die Zeit und alle Teile derselben sind Anschauungen, mithin einzelne Vorstellungen mit dem Mannigfaltigen, das sie in sich enthalten (siehe die transz. Ästhetik), mithin nicht bloße Begriffe, durch die eben dasselbe Bewußtsein, als in vielen Vorstellungen, sondern viel Vorstellungen als in einer,
und deren Bewußtsein, enthalten, mithin als zusammengesetzt, folglich die Einheit des Bewußtseins, als synthetisch, aber doch ursprünglich angetroffen wird. Diese Einzelnheit derselben ist wichtig in der Anwendung (siehe § 25).
註の解説終わり
 
Verstand ist, allgemein zu reden, das Vermögen der Erkenntnisse.
<悟性は一般に言うように認識能力である。>
Diese bestehen in der bestimmten Beziehung gegebener Vorstellungen auf ein Objekt.
<この(認識)は客観と与えられた表象の規定された関係のうちに存する。>
Objekt aber ist das, in dessen Begriff das Mannigfaltige einer gegebenen Anschauung vereinigt ist.
<しかし客観はその概念において与えられた直観の多様が結合しているものである。>
(meine Anmerkung)Z.B. man erkennt dieses Buch und jenes Buch (jedes Buch, also Mannigfaltige) als "das Buch" (Begriffe).
犬を主語としてその述語をつけられるもろもろのものとを関係づける。我々が客観を扶養している
Nun erfordert aber alle Vereinigung der Vorstellungen Einheit des Bewußtseins in der Synthesis derselben.
<そしてしかし表象の全ての一致はその(表象の)綜合において意識の統一を必要とする。>
表象をかき集めて一つにとり集める
Folglich ist die Einheit des Bewußtseins dasjenige, (was allein die Beziehung der Vorstellungen auf einen Gegenstand, mithin ihre objektive Gültigkeit, folglich, daß sie Erkenntnisse werden, ausmacht�,) und worauf folglich selbst die Möglichkeit des Verstandes beruht�.
<したがって意識の統一は、[或る対象(=客観)と表象の関係のみ(を構成するもの)][したがってその客観的妥当性を構成するもの]、[したがってそれら(諸表象)が認識となることを、形成するところのもの]、そして、そこにそれ自身悟性そのものの可能性も基づいているのであるのもの、である。>
erfordern et4=brauchen et4 voraus
 

Das erste reine Verstandeserkenntnis also, worauf sein ganzer übriger Gebrauch sich gründet, welches auch zugleich von allen Bedingungen der sinnlichen Anschauung ganz unabhängig ist, ist nun der Grundsatz der ursprünglichen synthetischen Einheit der Apperzeption.
<第一の純粋な悟性認識はしたがって、{そこにおいて全てのその他の(悟性)使用(経験的であろうと純粋であろうと)が根拠づけられる、その(悟性認識)はまた同時に感性的直観の全ての条件に全く独立で、}は統覚の根源的綜合的統一の原則である。>
直観されたものも最終的には統覚の統一にしたがっていると言える。
So ist die bloße Form der äußeren sinnlichen Anschauung, der Raum, noch gar keine Erkenntnis; er gibt nur das Mannigfaltige der Anschauung a priori zu einem möglichen Erkenntnis.
<それで外的感性的直観の純粋形式、したがって空間はまだ全く認識ではない、それ(空間)はアプリオリな直観の多様のみを或る可能な認識に与える。>
Um aber irgend etwas im Raume zu erkennen, z.B. eine Linie, muß ich sie ziehen, und also eine bestimmte Verbindung des gegebenen Mannigfaltigen synthetisch zustande, bringen, so, daß die Einheit dieser Handlung zugleich die Einheit des Bewußtseins (im Begriffe einer Linie) ist, und dadurch allererst ein Objekt (ein bestimmter Raum) erkannt wird.
<しかし空間における何かを認識するために、例えば一線、私がそれ(一線)を引かなければならない、そしてそのように与えられた多様の一つの規定された結合は綜合的に、この作業の統一が同時に意識の統一(一線の概念において)であるように成立させる、そして、それを通してまず最初に一客観(一つの規定された空間)が認識される。>
線を引くことによって意識の統一がなければ、線という規定された空間を認識できない。
Die synthetische Einheit des Bewußtseins ist also eine objektive Bedingung aller Erkenntnis, nicht deren ich bloß selbst bedarf, um ein Objekt zu erkennen, sondern unter der jede Anschauung stehen muß, um für mich Objekt zu werden, weil auf andere Art, und ohne diese Synthesis, das Mannigfaltige sich nicht in einem Bewußtsein vereinigen würde.
<意識の綜合的統一はしたがって全ての認識の一客観的条件であり、それ(客観的条件)を私は(客観を認識するために)単に自身に必要とするのではなく、わたしにとっての客観であるために(世界を私のものとするために)、客観的条件の下にすべての直観が有らなければならない、なぜなら別の方法において、そしてこの綜合なしに、多様は一意識において結合されないだろうから。>
例えば空間そのもの
カントの考えている直観とは直観されうるもの
 
Dieser letztere Satz ist, wie gesagt, selbst analytisch, ob er zwar die synthetische Einheit zur Bedingung alles Denkens macht, denn er sagt nichts weiter, als, daß alle meine Vorstellungen in irgendeiner gegebenen Anschauung unter der Bedingung stehen müssen, unter der ich sie allein als meine Vorstellungen zu dem identischen Selbst rechnen, und also, (ich sie)als in einer Apperzeption synthetisch verbunden durch den Allgemeinen Ausdruck Ich denke zusammenfassen kann.
<この後者の命題(根源的な)は(すでに)言ったようにそれ自身分析的であり、例えその(命題)が綜合的統一を全ての思考の条件とみなすとしても、なぜなら、その(命題)は私の諸表象が何か与えられた直観において(次のような)条件のもとに立ねばならないということ以上には何も述べていない、その(条件の)もとで私はそれ(与えられた直観)を同一的な自己への私の表象と数えることができるのであり、そしてしたがって、一統覚の内で総合的に私は考えるという一般的な表現によって結合しうるのである。>
私は与えられた直観を一つの統覚において総合的に統一されたものとして一般的な表現によって総括しうるのである。
全ての記憶の背後には思考が常に伴っている。
身体状態も
 
Aber dieser Grundsatz ist doch nicht ein Prinzip für jeden überhaupt möglichen Verstand, sondern nur für den, durch dessen reine Apperzeption in der Vorstellung: Ich bin, noch gar nichts Mannigfaltiges gegeben ist.
しかしこの原則は各々の可能な悟性一般とっての一原理ではなく、「我在り」という表象の内のそれの純粋統覚をとおしてもなお全く多様の何物も与えられていないところのもの(主体)にとっての一原理である。←B135
この悟性一般とは人間を越えるもの(神)をも含んでいる。神も論理的に考えるが神は考えることは創造する。
Derjenige Verstand, durch dessen Selbstbewußtsein zugleich das Mannigfaltige der Anschauung gegeben würde,
(悟性の)自己意識によって同時に直観の多様が与えられているだろう悟性
ein Verstand, durch dessen Vorstellung zugleich die Objekte dieser Vorstellung existierten,
つまり一つの、その表象によって同時にこの表象の客観が現実存在しているような悟性が存在するとすれば、それは
論理的に可能かつ知覚されうるものは現実存在するexsistieren
純粋図形は存在する。主語と述語を結び付けることと、主語が知覚されうるものとしてある。存在していることsein
Mensch und Nicht-Mensch(Gott)
würde einen besonderen Aktus der Synthesis der Mannigfaltigen zu der Einheit des Bewußtseins nicht bedürfen, deren der menschliche Verstand, der bloß denkt, nicht anschaut, bedarf.
は[直観せずに単に考えるその人間の悟性が必要としている]意識の統一へと多様を綜合するの一つの特殊な作用を必要としていないだろう。←論文に使える文章、重要
Aber für den menschlichen Verstand ist er doch unvermeidlich der erste Grundsatz, so, daß er sich sogar von einem anderen möglichen Verstande, entweder einem solchen, der selbst anschaute, oder, wenngleich eine sinnliche Anschauung, aber doch von anderer Art, als die im Raume und der Zeit, zum Grunde liegend besäße, sich nicht den mindesten Begriff machen kann.
しかし、人間の悟性にとっては、それ(Grundsatz)が不可避な第一原則である、
だから、それ(人間悟性)がそれどころか一つの別の可能な悟性、すなわち自己直観するそのような一つの(悟性)あるいは(彼が)時間と空間以外の別の方法を根本的に持っている感性的直観であっても、それらを理解することができない。
entwedef oder
von anderen Verstande von anderen Art
von Begriff machen理解する
mindestenまったく〜できない

2011年6月22日水曜日

§ 16 Von der ursprunglich-synthetischen Einheit der Apperzeption

§ 16 Von der ursprünglich-synthetischen Einheit der Apperzeption
統覚の根源的綜合的統一について
 
Das: Ich denke, muß alle meine Vorstellungen begleiten können;
<"私は考える"は全ての私の表象に伴いえなければならない>
私は考えるは表象を可能にはするが創造はしない。
Das Ichという言葉を使うと、自我を実体化してしまう。自我は機能的な存在。事物の生成の原理。
● denn sonst(そうでなければ) würde etwas in mir vorgestellt werden, was garnicht gedacht werden könnte, welches eben so viel heißt, als die Vorstellung würde entweder unmöglich, oder wenigstens für mich nichts sein. (Das ist eben so.それは要するにそうなのだ〈どうしようもない〉)
<なぜなら、そうでなければ、was-etwasまったく考えられえないものが私において表象されることとなり、それwasが同じくらい多く意味するのは、eben so=als(それが)表象することが不可能であるか、少なくとも私にとって無であるからである。>
ロックのideaではない。観念とは訳せない。意識しているかどうかは関係ない。考えるは直観するとは違って常に時間的。夢が一つのまとまりであること。まとまりのあるものとしての表象。過去の
手あかの付いていない表象=私の表象ではないが私の表象になり得る。
konnen?私の表象であるには違いが、
表象不可能
無:
思考不可能なもの:矛盾しているもの、
思考可能:現象のもの、論理的に可能なもの、
Diejenige Vorstellung, die vor allem Denken gegeben sein kann, heißt Anschauung.
<全ての思考の前に与えられうるような表象は直観という。>
(ここでの)表象=表象可能。
kそのような表象とはまったく考えることができない表象ではなく、[私は考える]という表象。でなければ時空間は私のとって無となってしまう。時空間も統覚によって一つに綜合的統一されているのではないのか。時空間は思考の前に与えられているのに表象であるのは、私の表象に伴いえ、考えることのできるものであるから。時空間の表象は時空間そのものではない。メタ的に時空間を考えてもそれは時空間の内で考えているのだから時空間そのものは考えられえない。
k純粋統覚は直観か。だとして、感性的純粋直観(時空間)とは別の直観があることになるのか。いや、私が考えるにそもそもの時空間こそが全ての表象を伴いうる私の統覚ではなかろうか。
Also hat alles Mannigfaltige der Anschauung eine notwendige Beziehung auf das: Ich denke, in demselben Subjekt, darin dieses Mannigfaltige angetroffen wird.
<それゆえ直観の全ての多様は"私は考える"と必然的に関係を持っている、そのうちにこの多様が出会わられるその[私は考える]という主体のうちで。>
見つけられるという訳は不適切。なぜならもしそうであれば主体に多様が含まれることになってしまう。私の中に変化と不変化なものがある。
渋谷春義。牧野。石川文康。Docekal(Wien)カントは男性主義なのでフェミニズムにはあまり使われないのだが「内なる身体」
Diese Vorstellung aber ist ein Aktus der Spontaneität, d.i. sie kann nicht als zur Sinnlichkeit gehörig angesehen werden. (gehörig zu et3に所属する、の一部をなす)(ansehen et4を als(fur) et4と見なす、考える)
<しかし、この表象Ich denkeは自発性の作用である、つまりこれ(表象)は感性に属するとは考えられえない。>
Vorstellung�表象されたもの、�表象すること
Ich nenne sie die reine Apperzeption, um sie von der empirischen zu unterscheiden, oder auch die ursprüngliche Apperzeption, weil sie dasjenige Selbstbewußtsein ist, was, indem es die Vorstellung Ich denke hervorbringt,(引き起こす) die alle anderen muß� begleiten können, und in allem Bewußtsein ein und dasselbe(同じ) ist�, von keiner(Vorstellung Ich denke) weiter begleitet werden kann�.
<私はその(表象)を経験的なそれと区別するために純粋統覚やまた根源的な(⇔派生的)統覚と名づける。なぜならその(表象)は、私は考えるという表象が引き起こす(indem)ことによって、すべての他の(表象)に伴いえなければならず�、そしてすべての意識において同様であり�、他のどんな([私は考える]という表象)をそれ以上伴いられえない、自己意識である�。>
k他のどんな表象をもそれ以上伴いえないもの?
フッサールの超越論的主観(初期)判断を確定する働きが知りたかった、永井均の<わたし>、カントの場合は判断の確定はすでに決まっていた。中世では普遍論争など論理学が発達してきた。しかし経験科学の発達から近代哲学では論理学は顧みられなかった。現代では論理哲学や言語哲学など論理学は再びチコブラーエ(実験科学者はデータをたくさん集める)ケプラー(理論天体学)と同じ時代の人。理論的な前提にみなとらわれて実験等を繰り返すので、科学は発達しにくい。事実を認定する機構が事実を決定する。
経験的統覚:そのつどそのつどの変化する私。身体を持った私。
他人の統覚は純粋統覚でもないし、経験的統覚ですらもない。
純粋統覚はメタフィジックスであり、それは想定するしかない。想定上、存在すると考えるしかない。
Ich nenne auch die Einheit derselben die transzendentale Einheit des Selbstbewußtseins, um die Möglichkeit der Erkenntnis a priori aus ihr zu bezeichnen.
<私はまたそれ(意識)の統一を自己意識の超越論的統一と名づける、アプリオリな認識の可能性をその(統一)から(つまりその統一を基にして)特徴づけるるために。>
transzendent: 経験は超越しない(経験の中にあるが)が経験を可能にする。プロレゴーメナにある。
理念はまさにtranszendent経験を超越する。経験の内にはない。
絵と額縁。
Denn die mannigfaltigen Vorstellungen, die in einer gewissen Anschauung gegeben werden, würden nicht insgesamt(<全部で、ひっくるめて) meine Vorstellungen sein, wenn sie nicht insgesamt zu einem Selbstbewußtsein gehörten,
なぜなら特定の直観において与えられる多様の諸表象は全部まとめて私の表象ではないのであろうから、もしも表象がすべて自己意識に属していないのだとしたら、>
d.i. als meine Vorstellungen (ob ich mich ihrer gleich nicht als solcher bewußt bin) müssen sie doch der Bedingung notwendig gemäß(gemäß et3 sein従って、適した) sein, unter der sie allein in einem allgemeinen Selbstbewußtsein zusammenstehen können, weil sie sonst(さもなくば) nicht durchgängig(一貫した、普遍的な、例外の無い) mir angehören(属する) würden.
<つまり、私の表象として(ob gleich (譲歩の文)私がその(表象)を同じくそのようなものとして意識しないにも関わらず)その(表象)は必然的に条件(アプリオリな綜合判断=純粋悟性の綜合的原則としての直観の公理?)に従わなければならないのであり、その(条件)のもとでのみその(表象)は一般的自己意識においてのみ(諸表象が)共に成立しうる。なぜなら、さもなくば、表象が一貫して私に属さないだろうからである。>
青くて四角いものを青という表象と四角いという表象とを共に表象として意識できる。
Aus dieser ursprünglichen Verbindung läßt sich vieles folgern.(aus et3から et4を推論する)
<この根源的な結合から多くのものが推論される。>
日常経験の観察から哲学は始まる。アインシュタインの時間論を知らずして、物理学を基礎づけるカントの時間論を語ってもいいのか。
 
 Nämlich diese durchgängige Identität der Apperzeption eines in der Anschauung gegebenen Mannigfaltigen, enthält eine Synthesis der Vorstellungen, und ist nur durch das Bewußtsein dieser Synthesis möglich.
<つまり(要するに)、直観において与えられた一多様の統覚のこの一貫した同一性は、表象の綜合を含み、そして、この綜合の意識を通してのみ可能である。>
k一多様とは今ここのこの私に与えられる多様は総合されているので一つであるということか。
意識が同一性を生み出し、表象の綜合を可能にする。同一性から意識を引き出すことはできる。ここに飛躍があるのではないか。分析から導き出す。表象そのものではなく、表象を総合するという働き
Denn das empirische Bewußtsein, welches verschiedene Vorstellungen begleitet, ist an sich zerstreut(うわのそらの、散らばっている) und ohne Beziehung auf die Identität des Subjekts.
<なぜなら、様々な表象を伴う経験的な意識はそれ自身バラバラであり、主観の同一性における関係を持たない。>
統覚が同一性を生み出した。
フロイトによる夢判断を思う。ここでは一つの意識においても同じ対象がばらばらになっているということか。しかしながら、夢においても唯一の私において統一されているのは確かではないか。
★Diese Beziehung geschieht(geschehen) also dadurch noch nicht, daß ich jede Vorstellung mit Bewußtsein begleite, sondern daß ich eine zu der anderen hinzusetze und mir der Synthesis derselben bewußt bin. (jm bewusst seinによくわかっている、自覚している)
<したがって、この関係は[私は各表象を意識とともに伴うこと]ではなく、むしろ[私は別のものに対して或る(表象)を他の表象にを付け加え、私にまさにそれの綜合(しているということ)を自覚するということ]によって、引き起こされる。>
〈わたし〉は思考の対象にならない。
Also nur dadurch, daß ich ein Mannigfaltiges gegebener Vorstellungen in einem Bewußtsein verbinden kann, ist es möglich, daß ich mir die Identität des Bewußtseins in diesen Vorstellungen selbst vorstelle,
<したがって[私が与えられた諸表象の多様を一つ意識の内で結びつけうること]によってのみ[私が意識の同一性をこの諸表象自身において表象(想像)すること]は可能である>
 d.i. die analytische Einheit der Apperzeption ist nur unter der Voraussetzung irgendeiner synthetischen möglich*.
つまり、統覚の分析的統一は何かある綜合的(統一)の前提のもとにのみ可能である
綜合的統一がある
●Der Gedanke: diese in der Anschauung gegebenen Vorstellungen gehören mir insgesamt zu, heißt demnach(deshalb) soviel, als ich vereinige sie in einem Selbstbewußtsein, oder kann sie wenigstens darin vereinigen, und ob er gleich selbst noch nicht das Bewußtsein der Synthesis der Vorstellungen ist, so setzt er doch die Möglichkeit der letzteren voraus,
直観に与えられた諸表象が全て私に属するという思想(考え)は従って、私がその(表象)がある自己意識に統一する、あるいは少なくとも表象をその(自己意識の)内に統一しうる、そしてer(自己意識)がそれ自身、諸表象の綜合の意識でないとしても、そのようにer(自己意識)は後者(表象の綜合)の可能性を前提している。soviel als、ob gleich
d.i. nur dadurch, daß ich das Mannigfaltige derselben in einem Bewußtsein begreifen(verstehen) kann, nenne ich dieselben insgesamt meine Vorstellungen;
つまり私は当の多様を或る意識において把握(包括)しうることを通して、私はそれ(表象)を総じて私の表象と名づける。
denn sonst würde ich ein so vielfarbiges(多色の多彩な) verschiedenes Selbst haben, als ich Vorstellungen habe, deren ich mir bewußt bin.
なぜなら、そうでなければ、私は多彩で様々な一つの自己を持つことになるであろうからだ、私が[私が私に意識されているところの]諸表象を持つときには。als 同等比較
正確には自覚していなくても認知されている限りでと考えるのが妥当であろう。
Synthetische Einheit des Mannigfaltigen der Anschauungen, als a priori gegeben, ist also der Grund der Identität der Apperzeption selbst, die a priori allem meinem bestimmten Denken vorhergeht.
<アプリオリに与えられたもの(所与の)としての直観の多様の綜合的統一は、したがって[アプリオリに全ての私の特定の思考に先行する]統覚自身の同一性の根拠である。>
als a priori gegebenアプリオリに与えられるのは何か。多様?直観の多様ならば数学しか残らなくなる。誰から与えられるのか?
道徳の形而上学、根源的取得
Verbindung liegt aber nicht in den Gegenständen, und kann von ihnen nicht etwa durch Wahrnehmung entlehnt(借用する) und in den Verstand dadurch allererst aufgenommen werden, sondern ist allein eine Verrichtung des Verstandes, der selbst nichts weiter ist, als das Vermögen, a priori zu verbinden, und das Mannigfaltige gegebener Vorstellungen unter Einheit der Apperzeption zu bringen, welcher Grundsatz der oberste im ganzen menschlichen Erkenntnis ist.
<しかし、結合は諸対象にはなく、その(諸対象)から例えば知覚を通して借用され、それ(知覚)を通して初めて悟性に受け取られえるのではなく、(結合は)単に[アプリオリに結合する能力[与えられた表象の多様を統覚の統一のもとにもたらす能力]である以外の何物でもない]悟性の秩序づけであり、のである、この(統一の)原則は全ての人間の認識における最上の原則である。>(welch=前文の内容または中世単数形の不定代名詞などを受けて=was(Er zeigt sich plötzlich, welches(=was) uns überraschte))
結合:カテゴリーと減少
* Die analytische Einheit des Bewußtseins hängt allen gemeinsamen Begriffen, als solchen, an, z.B. wenn ich mir rot überhaupt denke, so stelle ich mir dadurch eine Beschaffenheit vor, die (als Merkmal) irgendworan angetroffen, oder mit anderen Vorstellungen verbunden sein kann; also nur vermöge einer vorausgedachten möglichen synthetischen Einheit kann ich mir die analytische vorstellen.
<意識の分析的統一はつぎのようなものとしての全ての一般的概念に依存する。例えば、私が赤一般を考えるとき私は[メルクマール(特徴、徴標)としてどこかで現われる、あるいは他の表象と結合されてありうる]或る性質を表象(想像)する。従って唯一先行して考えられた可能な綜合的統一のおかげで私は分析的な(統一)を表象(想像)しうるのである。>
赤色を見たことのない人は
●Eine Vorstellung, die als verschiedenen gemein gedacht werden soll, wird als zu solchen gehörig angesehen, die außer ihr noch etwas Verschiedenes an sich haben, folglich muß sie in synthetischer Einheit mit anderen (wenngleich nur möglichen Vorstellungen) vorher gedacht werden, ehe ich die analytische Einheit des Bewußtseins, welche sie zum conceptus communis macht, an ihr denken kann.
<異なった物(さまざまな赤)として共通に考えるべき一表象は[ihr(その赤一般の表象)以外の何か異なったもの(それぞれの赤)それ自体を持っているようなもの]に属しているとみなされる、従って、sieは綜合的統一において別の(唯一可能な表象であろうとも)とともにあらかじめ考えられねばならず、私は[sieが一般概念(ライプニッツの言葉?)へと形成する]意識の分析的統一をihr(表象)において考えられる。>vorherとeheが呼応している。カテゴリー存在論を飛び越えると独断的認識に陥る。
Und so ist die synthetische Einheit der Apperzeption der höchste Punkt, an dem man allen Verstandesgebrauch, selbst die ganze Logik, und, nach ihr, die Transzendental-Philosophie heften muß, ja dieses Vermögen ist der Verstand selbst.
<そしてそのように、統覚の綜合的統一とは[人が全てのそれ自身完全な論理学である論理学にしたがって悟性使用と超越論哲学(批判ではなく、批判の後の形而上学)を留めつける]頂点であり、実に、この能力(統覚の能力)は悟性そのものなのである。>
超越論的哲学よりも超越論哲学の方がいい。カント哲学の常識。先験的哲学。そして超越論哲学はあらゆる学問全体である。
 
Dieser Grundsatz, der notwendigen Einheit der Apperzeption, ist� nun zwar selbst identisch, mithin ein analytischer Satz, erklärt� aber doch eine Synthesis des in einer Anschauung gegebenen Mannigfaltigen als notwendig, ohne welche jene, durchgängige Identität des Selbstbewußtseins nicht gedacht werden kann.
統覚の必然的統一のこの原則はそれ自身同一であり、したがって、しかし、分析的命題であり、直観に与えられた多様の綜合を必然的なものとして説明する、綜合なしに自己意識の一貫した自己同一性を考えられえない。
統覚の同一の根拠が総合的統一
Denn durch das Ich, als einfache Vorstellung, ist nichts Mannigfaltiges gegeben; in der Anschauung, die davon unterschieden ist, kann es nur gegeben und durch Verbindung in einem Bewußtsein gedacht werden.
なぜなら、自我を通して、単一の表象としての、は多様は何物も与えたれない、それ(自我)と異なる直観(事物を直観する場合にはor直観された対象の場合には)においてそれ(多様)はただ与えられうるにすぎないのであって、(自己意識の下で現象と悟性概念との)結合を通して或る意識において考えられる。
Ein Verstand, in welchem durch das Selbstbewußtsein zugleich alles Mannigfaltige gegeben würde, würde anschauen; der unsere (Verstand) kann nur denken und muß in den Sinnen die Anschauung suchen.
(もしも)自己意識を通して同時に全ての多様を与えられるだろうところの悟性(があるとすれば)は直観するだろう我々の考えることができて、感官において直観(の対象)を探さなければならない。
Anschauungの二つの意味に注意!直観作用、直観される対象。
Ich bin mir also des identischen Selbst bewußt, in Ansehung des Mannigfaltigen der mir in einer Anschauung gegebenen Vorstellungen, weil ich sie insgesamt meine Vorstellungen nenne, die eine ausmachen.(in Ansehung et2)
それゆえ私は同一的な自己を意識している、私に直観において与えられた表象の多様に関して(を考慮に入れて)、なぜなら私は全てまとめて一つのものを形成している私の表象と名づける。
 Das ist aber soviel, als, daß ich mir einer notwendigen Synthesis derselben a priori bewußt bin, welche die ursprüngliche synthetische Einheit der Apperzeption heißt, unter der alle mir gegebenen Vorstellungen stehen, aber unter die sie auch durch eine Synthesis gebracht werden müssen.
しかしそれは私がそれ(表象)の[統覚の根源的綜合的統一を意味する]一つの必然的綜合をアプリオリに意識しており、、ということと同等である、私に与えられた全ての表象のもとに立つがしかしsieは或る綜合を通して使われえなければならない。
統覚のもとへとあらゆる私に与えられた諸表象は与えられた表象は立っているのであるが、しかし統覚の下でまた統一はもたらされえなければならない。
同等比較

2011年5月19日木曜日

Das Lied

Das Lied (von Ludwig Spohr)
 
1.Wie ein stöl-zer Ad-ler schwingt sich auf das lied
ヴィー、アイン、シュトルツァー、アドラー、シュヴィンクト、ジッヒ、アウフ、ダス、リート
   dass es froh die See-le auf zum Him-mel zeight
ダス、エス、フロー、ディー、ゼーレ、アウフ、ヒンメェル、ツァイグト
   Weckt in uns-rer Brust ho-he heil-ge
ヴェックト、イン、ウンザラー、ブルスト、ホーエ、ハイリゲ
   Lust, weckt in uns-rer Brust ho-he heil-ge Lust
ルスト、ヴェックト、イン、ウンザラー、ブルスト、ホーエ、ハイリゲ、ルスト
誇り高き鷲のように歌の上に弧を描こう
魂を喜んで(陽気に)天に向かって示す
我々の胸に高き聖なる欲望を目覚めさせよう
我々の胸に高き聖なる欲望を目覚めさせよう
 
2.Was der trief-sten See-le je Er-qui-ckung beut,
ヴァス、デア、ティーフステン、ゼーレ、イェ、エアクゥイックング、ボイト
   al-les Gro-ße, Ed-le, Treu und Ei-nig-keit,
アレス、グローセ、エードレ、トロイ、ウント、アイニッヒカイト
   Lieb und Ta-ten-drang wek-ket der Ge-
リープ、ウント、ターテンドラング、ヴェックト、デア、ゲ
   sang, Lieb und Ta-ten-drang wek-ket der Ge-sang
-ザング、リープ、ウント、ターテンドラング、ヴェックト、デア、ゲザング
最も深遠なる魂をやがて元気づけるものは
全ての偉大さ、高貴さ、忠誠心と合意
愛と行動意欲を歌声が目覚めさせる
愛と行動意欲を歌声が目覚めさせる
 
3.Al-les Tar-te, Schö-ne, was die Brust be-wegt,
アレス、ターテ、ショェーネ、ヴァス、ディー、ブルスト、ベヴェーグト
   al-les gött-lich Ho-ho, das yu Him.mel trägt
アレス、ギュッターリッヒ、ホーホ、ダス、ユ、ヒンメェル、トレーグト
   al-les das er-blüht freu-dig aus dem
アレス、ダス、エアブルート、フロイリッヒ、アウス、デム
   Lied, das, ja das er-blüht freu-dig aus dem Lied.
リート、ダス、ヤー、ダス、エアブルート、フロイリッヒ、アウス、デム、リート
全ての辛辣さ、美しさ、胸をうごかすもの
天へ運んでゆく全ての神的な高み
全ては歌から喜びとともに花開く
そう、全ては歌から喜びとともに花開くのだ

2011年5月2日月曜日

JL-1-1

I.
In der psychoanalytischen Theorie nehmen wir unbedenklich an,(自明のものとして考える) daß der Ablauf der seelischen Vorgänge automatisch durch das Lustprinzip reguliert wird,(心的プロセスの経過は快感原則によって規定される) das heißt, wir glauben, daß er(Ablauf) jedesmal durch eine unlustvolle Spannung angeregt wird(その経過は常に不快な緊張によって興奮し) und dann eine solche Richtung einschlägt,(そして一つのそのような方向へ進む) daß sein Endergebnis mit einer Herabsetzung dieser Spannung, also mit einer Vermeidung von Unlust oder Erzeugung von Lust zusammenfällt.(その最終的な成果がこの緊張の解消とつまり不快の回避や快感の生成と一致するような方向)
心的プロセスの経過は快感原則によって規定されることを精神分析理論において我々は自明のことと考える、つまりそれ(経過)は常に不快な緊張によって興奮し、その最終的な成果がこの緊張の解消とつまり不快の回避や快感の生成と一致するようなそのような一方向へ進むことを我々は信じているのだ。
Wenn wir die von uns studierten seelischen Prozesse mit Rücksicht auf diesen Ablauf betrachten(我々によって研究された心的プロセスをこうした経過に基づいて検討するとき), führen wir den ökonomischen Gesichtspunkt in unsere Arbeit ein.(我々は経済論の観点を我々の研究に導入するのだ)
Wir meinen, eine Darstellung, die neben dem topischen und dem dynamischen Moment noch dies ökonomische zu würdigen versuche,(局所的かつ力動的な要因と比べて、なおこの経済論的な要因を評価しようとする理論は) sei� die vollständigste, die wir uns derzeit vorstellen können,(我々が現在想像しうる最も完璧なもので) und verdiene� es, durch den Namen einer metapsychologischen hervorgehoben zu werden.(メタ心理学の理論という名前によって呼ぶに値する理論であると我々は考える)
快感原則による説明を前提とした議論=経済論的な観点

2011年4月20日水曜日

§ 15 Von der Möglichkeit einer Verbindung überhaupt 3

Der Deduktion der reinen Verstandesbegriffe
Zweiter Abschnitt
Transzendentale Deduktion der reinen Verstandesbegriffe
純粋悟性概念の演繹
第二節
純粋悟性概念の超越論的演繹
 
§ 15 Von der Möglichkeit einer Verbindung überhaupt
結合一般の可能性について
 
演繹:範疇の認識への必要性の論証。
Das Mannigfaltige der Vorstellungen kann in einer Anschauung gegeben werden, die[Anschauung] bloß sinnlich d.i.[Anschauung] nichts als Empfänglichkeit(受容性) ist, und die Form dieser Anschauung kann a priori in unserem Vorstellungsvermögen liegen, ohne doch etwas anderes, als die Art zu sein, wie das Subjekt affiziert wird.
<表象の多様はまったく感性的な直観(つまり、受容性に他ならない)において与えられており、この直観の形式はアプリオリに我々の表象能力の内にありうる「あるではなくて?」。ただしそれ(表象能力「形式ではない」)は主体が触発されるような仕方以外ではありえない>
バラを構成しているものがくや花弁、今現に見えているもの、perceptio覚知によって?科学の基礎付けなのだから、生理学は持ち込めない、表象の質量=表象の多様、表象の形式=時空間、正常な人がモデル、⇔感官に触発されていないのにあの世と交信する人は排除「死霊者の夢」
 
 Allein(ところが) die Verbindung (conjunctio) eines Mannigfaltigen überhaupt,(多様一般の結合のみが) kann niemals durch Sinne(覚知を通して) in uns kommen, und kann also auch nicht in der reinen Form der
sinnlichen Anschauung(感性的な直観の純粋な形式において) zugleich(gleichzeitig/zusammen) mit enthalten(含む) sein;(in et3 {mit} enthalten seinに{ともに}含まれている)
<ところが多様一般の結合は決して感官を通して我々には与えられず、また感性的な直観の純粋な形式に同時にともに含まれていることはありえない。>apprihention覚知
科学的に分析したものは現象、表象ではない。今現在のみ=現象。人の持つ知識によって表象はことなる。クオークの表象から現象が説明されている。表象は現象に先立つ?現象は臆見を含む。説明がそれを表象にする。見えない微生物は現象ではなく表象であるしかない。現象は表象されうる。現象は我々の知らないことばかり今インドで何が起きているか。
日常生活において流動体。個々の事物や現象は全て。
 
 denn sie[Verbindung] ist ein Aktus der Spontaneität der Vorstellungskraft,(表象能力の自発性の作用) und, da(〜なので) man diese[Spontaneität], zum Unterschiede von der Sinnlichkeit, Verstand nennen muß,
<なぜならそれ〈結合〉は表象能力の自発性の一つの作用だからである、そして人はこれ〈自発性〉を感性との違いによって悟性と名づけなければならないので、>
 
★so ist alle Verbindung, wir mögen uns ihrer(Verbindung) bewußt werden oder nicht,(sich3自分の et2を bewusst seinよくわかっている) es mag eine Verbindung des Mannigfaltigen der Anschauung, oder mancherlei(不定数詞、無変化「様々な」) Begriffe, und an der ersteren der sinnlichen, oder nicht sinnlichen Anschauung sein, eine Verstandeshandlung,(悟性作用) die wir mit der allgemeinen Benennung Synthesis(普遍的な綜合の名称によって) belegen(覆う) würden, um dadurch zugleich(gleichzeitig,zusammen) bemerklich(眼に着く、感じ取れる) zu machen, daß wir uns nichts, als im Objekt verbunden, vorstellen können, ohne es vorher(それ以前に、前もって) selbst verbunden zu haben, und unter allen Vorstellungen die Verbindung die einzige ist, die nicht durch Objekte gegeben, sondern nur vom Subjekte selbst verrichtet(遂行する) werden kann, weil sie ein Aktus seiner Selbsttändigkeit(Spontaneität) ist.
 
 wir mögen uns ihrer bewußt werden oder nicht,
たとえ我々に意識されようといまいと
es(Verbindung) mag eine Verbindung des Mannigfaltigen der Anschauung, oder mancherlei Begriffe,
直観の多様の結合であろうと、様々な概念の結合「犬は・動物である、1+1」であろうと
und [eine Verbindung] an der ersteren der sinnlichen, oder nicht sinnlichen Anschauung sein,(es mag sein)
また第一の感性的な直観「数学的な直観も感性的」における結合であろうと非感性的な直観「現代の数学的な直観だがカントの時代にはなかったので違う。ここではライプニッツ学派への批判」における結合であろうと
so ist alle Verbindung eine Verstandeshandlung,
die wir mit der allgemeinen Benennung Synthesis belegen würden,
全ての結合は、我々が一般的な「綜合」という名称によって割り当てられる悟性作用である。
 um dadurch zugleich bemerklich zu machen,
その(綜合という名称によって割り当てられる)ことによって同時に次のことを明らかにされる
 daß wir uns nichts, als im Objekt verbunden, vorstellen können, ohne es(Objekt) vorher selbst verbunden zu haben,(ohne zu〜することなく)verbunden haben
それ自身が前もって結合されることなく、客観において結ばれているものとしてしか我々に表象されえない。
 und unter allen Vorstellungen die Verbindung die einzige ist,
 die nicht durch Objekte gegeben, sondern nur vom Subjekte selbst verrichtet werden kann,
そして全ての表象のうちで結合がその結合は客観によっては与えられず、主観(基体hypokeme)自身によってのみ遂行されうる唯一のものである
 weil sie ein Aktus seiner Selbsttändigkeit ist.
なぜなら結合は自己活動性(自発性)の作用だからである。
「慎重な書き方、」要約、結合は悟性によってなされる。
第一版は綜合が中心。第二版は結合が中心。
 
 Man wird hier leicht gewahr(gewahr werden=merken), daß diese Handlung(Tat,Akt) ursprünglich(最初は、本来は) einig(唯一のもの), und für alle Verbindung gleichgeltend(現行の、有効な)(jm. gleich geltenにとってどちらでもよい) sein müsse, und daß die Auflösung(解決) Analysis, die ihr Gegenteil(逆、反対) zu sein scheint, sie doch jederzeit voraussetze; denn wo der Verstand vorher nichts verbunden hat, da kann er auch nichts auflösen, weil es nur durch ihn<Verstand> als verbunden (etwas) der Vorstellungskraft hat gegeben werden können.(et4を als erledigt betrachtenすでに方がついたものとみなす)
<人はここでつぎのことに簡単に気づく、この作用(悟性作用)は根源的に唯一であり「悟性が結合する仕方は一つしかない」、全ての結合にとってどれも有効であるに違いないだろうということと、その正反対であるらしい分解(分析)は、その(悟性作用)を常に前提している。なぜなら、悟性は前もって何も関係していないところでその(悟性)はまた分解しえないから。その理由はes(何か分解されるもの)はその(悟性)を通してのみ表象力に結合して与えられうるからである、ということ。>wo da
 

Aber der Begriff der Verbindung führt außer dem Begriffe des Mannigfaltigen, und der Synthesis desselben, noch den der Einheit desselben bei sich.(et4を bei sich führen携行する)
<しかし結合の概念は多様の概念と多様の綜合の概念以外に、多様の統一の概念をともなう>
物体は広がりを持つ。物体は重さを持つ(諸言A6A7B10B11)
結合=統一と綜合()
統一=統覚が概念を統一(悟性、範疇)
知覚をかき集めて一つにする=綜合
さんじゅうの綜合、第一版のほうが
心理学ではない。
 Verbindung ist Vorstellung der synthetischen Einheit des Mannigfaltilgen*.
<結合は多様を綜合的統一した表象である。>
 Die Vorstellung dieser Einheit kann also nicht aus der Verbindung entstehen, sie macht vielmehr dadurch, daß sie zur Vorstellung des Mannigfaltigen hinzukommt(=hinzufügen), den Begriff der Verbindung allererst(第一の、真っ先に) möglich.
<この統一の表象は結合から生じえない。sie統一の表象はむしろ多様という表象に付加されることを通して結合の概念をはじめて可能にする。>
M+E=V
第一版では
表象はすべて与えられているもの。与えられうるもの全て。久呉高之
平田さん。
感性は表象能力?感性は多様を捕える。悟性はカテゴリー的な法則を捕える。大前提を推論していく能力が理性。
宇宙のほうが人間に付き合っている。実験はロック。理論物理はカント。斥力と引力=ニュートンの影響。デカルトは遠隔作用を認めない。カントは遠隔作用が不気味だと考えていた。空虚をデカルトは認めない。
ロックは固さと事物があること以外には説明はできても真なるものは発見できない。
4つくらいの無がある。
★ Diese Einheit, die a priori vor allen Begriffen der Verbindung vorhergeht(先行する), ist nicht etwa() jene Kategorie der Einheit (§ 10); denn alle Kategorien gründen sich auf logische Funktionen in Urteilen, in diesen aber ist schon Verbindung, mithin Einheit gegebener Begriffe gedacht.
<結合の概念にアプリオリに先立つこの統一(統覚)は統一のかの範疇ではない。なぜなら全ての範疇は判断における論理的機能に基づいているからである、しかしこの判断のうちではすでに結合、したがって(つまり結合は)与えられた概念の統一(判断機能)であると考えられる。>
 
 Die Kategorie setzt also schon Verbindung voraus. Also müssen wir diese Einheit (als qualitative § 12) noch höher suchen, nämlich in demjenigen, was selbst den Grund der Einheit verschiedener Begriffe in Urteilen, mithin der Möglichkeit des Verstandes, sogar(そのうえさらに) in seinem logischen Gebrauche, enthält.
<したがって範疇はすでに結合を前提している。したがって我々は(12節の量としての)この統一をなおより高く求めなければならない。つまり判断における様々な概念の統一の根拠、従って(すなわち)悟性の可能性そのうえさらに論理的使用における(悟性)を含むようなもののうちに(求めなければならない)>Also müssen wir diese Einheit in demjenigen suchen.
カントにとって悟性の限界は判断。悟性の能力。
* Ob die Vorstellungen selbst identisch sind, und also eine durch die andere analytisch könne gedacht werden, das kommt hier nicht in Betrachtung(観察).
<表象そのものが同一であるかどうか、そしてしたがって(つまり)、或る表象が他の表象を通して分析的に考えられうるかどうかはここでは考察においては現われない。>高峯訳「ここでは考察しない」Beobachtungはまさに「観察」。
 Das Bewußtsein der einen ist, sofern vom Mannigfaltigen die Rede ist(die Rede von et3が問題である), vom Bewußtsein der anderen doch immer zu unterscheiden(sein zu), und auf die Synthesis dieses (möglichen) Bewußtseins kommt es hier allein an.(es kommt auf et4 an〜次第である。〜が重要である)
<一つの表象の意識は{多様が問題である限りにおいて}他の表象の意識と常に異なっていなくてはならない。そしてこの可能な意識の綜合だけがここで重要である。>

2011年4月13日水曜日

§ 15 Von der Möglichkeit einer Verbindung überhaupt2

Der Deduktion der reinen Verstandesbegriffe
Zweiter Abschnitt
Transzendentale Deduktion der reinen Verstandesbegriffe
純粋悟性概念の演繹
第二章
純粋悟性概念の超越論的演繹
 
§ 15 Von der Möglichkeit einer Verbindung überhaupt
結合一般の可能性について
 
Das Mannigfaltige der Vorstellungen kann in einer Anschauung gegeben werden, die[Anschauung] bloß sinnlich d.i.[Anschauung] nichts als Empfänglichkeit(受容性) ist, und die Form dieser Anschauung kann a priori in unserem Vorstellungsvermögen liegen, ohne doch etwas anderes, als die Art zu sein, wie das Subjekt affiziert wird.<表象の多様はまったく感性的な直観(つまり、受容性に他ならない)において与えられており、この直観の形式はアプリオリに我々の表象能力の内に置かれている。ただしそれ(形式)は主体が触発されるような仕方以外ではありえない>
 
 Allein(ところが) die Verbindung (conjunctio) eines Mannigfaltigen überhaupt,(多様一般の結合のみが) kann niemals durch Sinne(覚知を通して) in uns kommen, und kann also auch nicht in der reinen Form der
sinnlichen Anschauung(感性的な直観の純粋な形式において) zugleich(gleichzeitig/zusammen) mit enthalten(含む) sein;(in et3 {mit} enthalten seinに{ともに}含まれている)
<ところが多様一般の結合は決して覚知を通して我々には与えられず、また感性的な直観の純粋な形式に同時にともに含まれていない。>
 
 denn sie[Verbindung] ist ein Aktus der Spontaneität der Vorstellungskraft,(表象能力の自発性の作用) und, da(〜なので) man diese[Verbindung], zum Unterschiede von der Sinnlichkeit, Verstand nennen muß,
<なぜならそれ〈結合〉は表象能力の自発性の一つの作用だからである、そして人はこれ〈結合〉を感性との違いによって悟性と名づけなければならないので、>
 
★so ist alle Verbindung, wir mögen uns ihrer(Verbindung) bewußt werden oder nicht,(sich3自分の et2を bewusst seinよくわかっている) es mag eine Verbindung des Mannigfaltigen der Anschauung, oder mancherlei(不定数詞、無変化「様々な」) Begriffe, und an der ersteren der sinnlichen, oder nicht sinnlichen Anschauung sein, eine Verstandeshandlung,(悟性作用) die wir mit der allgemeinen Benennung Synthesis(普遍的な綜合の名称によって) belegen(覆う) würden, um dadurch zugleich(gleichzeitig,zusammen) bemerklich(眼に着く、感じ取れる) zu machen, daß wir uns nichts, als im Objekt verbunden, vorstellen können, ohne es vorher(それ以前に、前もって) selbst verbunden zu haben, und unter allen Vorstellungen die Verbindung die einzige ist, die nicht durch Objekte gegeben, sondern nur vom Subjekte selbst verrichtet(遂行する) werden kann, weil sie ein Aktus seiner Selbsttändigkeit(Spontaneität) ist.
 
 wir mögen uns ihrer bewußt werden oder nicht,
たとえ我々に意識されようといまいと
es mag eine Verbindung des Mannigfaltigen der Anschauung, oder mancherlei Begriffe,
それが感性の多様の結合であろうと、様々な概念の結合であろうと
und [eine Verbindung] an der ersteren der sinnlichen, oder nicht sinnlichen Anschauung sein,
また第一の感性的な直観における結合であろうと非感性的な直観における結合であろうと
so ist alle Verbindung eine Verstandeshandlung,
die wir mit der allgemeinen Benennung Synthesis belegen würden,
全ての結合は、我々が普遍的な「綜合」という名称によって割り当てられる悟性作用である。
 um dadurch zugleich bemerklich zu machen,
その(綜合という名称によって割り当てられる)ことによって同時に次のことを明らかにするためうる表象されうる
 daß wir uns nichts, als im Objekt verbunden, vorstellen können, ohne es vorher selbst verbunden zu haben,(ohne zu〜することなく)
それ自身が前もって結合されることなく客観において結ばれているものとしてしか我々に表象されえない。
 und unter allen Vorstellungen die Verbindung die einzige ist,
 die nicht durch Objekte gegeben, sondern nur vom Subjekte selbst verrichtet werden kann,
そして全ての表象のうちで結合がその結合は客体によっては与えられず、主体自身によってのみ遂行されうる唯一のものである
 weil sie ein Aktus seiner Selbsttändigkeit ist.
なぜなら結合は自発性の作用だからである。
 

 Man wird hier leicht gewahr(gewahr werden=merken), daß diese Handlung(Tat,Akt) ursprünglich(最初は、本来は) einig(唯一のもの), und für alle Verbindung gleichgeltend(現行の、有効な)(jm. gleich geltenにとってどちらでもよい) sein müsse, und daß die Auflösung(解決) Analysis, die ihr Gegenteil(逆、反対) zu sein scheint, sie doch jederzeit voraussetze; denn wo der Verstand vorher nichts verbunden hat, da kann er auch nichts auflösen, weil es nur durch ihn<Verstand> als verbunden der Vorstellungskraft hat gegeben werden können.(et4を als erledigt betrachtenすでに方がついたものとみなす)
<人はここでつぎのことに簡単に気づく、この作用(悟性作用)は根源的に唯一であり、全ての結合にとってどれも有効であるに違いないだろうということと、その正反対であるらしい分解(分析)は、その(悟性作用=結合)を常に前提している。なぜなら、悟性は前もって何も関係していないところでその(悟性)はまた分解しえないから。その理由はes(何か分解されるもの)はその(悟性)を通してのみ表象力を結合して与えられうるからである、ということ。>
 

Aber der Begriff der Verbindung führt außer dem Begriffe des Mannigfaltigen, und der Synthesis desselben, noch den der Einheit desselben bei sich.(et4を bei sich führen携行する)
<しかし結合の概念は多様の概念と多様の綜合以外に、多様の統一をともなう>
物体は広がりを持つ。物体は重さを持つ(諸言A6A7B10B11)
 Verbindung ist Vorstellung der synthetischen Einheit des Mannigfaltilgen*.
<結合は多様を綜合的統一した表象である。>
 Die Vorstellung dieser Einheit kann also nicht aus der Verbindung entstehen, sie macht vielmehr dadurch, daß sie zur Vorstellung des Mannigfaltigen hinzukommt(=hinzufügen), den Begriff der Verbindung allererst(第一の、真っ先に) möglich.
<この統一の表象は結合から発生することはできない。それはむしろ多様という表象に付加されることを通して結合の概念をはじめて可能にする。>
★ Diese Einheit, die a priori vor allen Begriffen der Verbindung vorhergeht(先行する), ist nicht etwa(ほぼ) jene Kategorie der Einheit (§ 10); denn alle Kategorien gründen sich auf logische Funktionen in Urteilen, in diesen aber ist schon Verbindung, mithin Einheit gegebener Begriffe gedacht.
<この結合の概念にアプリオリに先立つ統一は統一のかの範疇ではない。なぜなら全ての範疇は判断における論理的機能に基づいているが、しかしこの範疇のうちではすでに結合、したがって与えられた概念の統一であると考えられるからである。>
 Die Kategorie setzt also schon Verbindung voraus. Also müssen wir diese Einheit (als qualitative § 12) noch höher suchen, nämlich in demjenigen, was selbst den Grund der Einheit verschiedener Begriffe in Urteilen, mithin der Möglichkeit des Verstandes, sogar(そのうえさらに) in seinem logischen Gebrauche, enthält.
<したがって範疇はすでに結合を前提している。したがって我々は(12節の質としての)この統一をなおより高く求めなければならない。つまり判断における様々な概念の統一の根拠、従って悟性の可能性そのうえさらに論理的使用における(悟性)を含むようなもののうちに(求めなければならない)>Also müssen wir diese Einheit in demjenigen suchen.
 
* Ob die Vorstellungen selbst identisch sind, und also eine durch die andere analytisch könne gedacht werden, das kommt hier nicht in Betrachtung(観察).
<表象そのものが同一であるかどうか、つまり、或る表象が他の表象を通して分析的に考えられうるかどうかはここでは観察においては現われない。>高峯訳「ここでは考察しない」
 Das Bewußtsein der einen ist, sofern vom Mannigfaltigen die Rede ist, vom Bewußtsein der anderen doch immer zu unterscheiden, und auf die Synthesis dieses (möglichen) Bewußtseins kommt es hier allein an.(es kommt auf et4 an〜次第である。〜が重要である)
<一つの表象の意識は{多様が言葉である限りにおいて}他のものの意識と常に異なりうる。そしてこの可能意識の綜合だけがここで重要である。>