§ 16 Von der ursprünglich-synthetischen Einheit der Apperzeption
統覚の根源的綜合的統一について
統覚の根源的綜合的統一について
Das: Ich denke, muß alle meine Vorstellungen begleiten können;
<"私は考える"は全ての私の表象に伴いえなければならない>
私は考えるは表象を可能にはするが創造はしない。
Das Ichという言葉を使うと、自我を実体化してしまう。自我は機能的な存在。事物の生成の原理。
● denn sonst(そうでなければ) würde etwas in mir vorgestellt werden, was garnicht gedacht werden könnte, welches eben so viel heißt, als die Vorstellung würde entweder unmöglich, oder wenigstens für mich nichts sein. (Das ist eben so.それは要するにそうなのだ〈どうしようもない〉)
<なぜなら、そうでなければ、was-etwasまったく考えられえないものが私において表象されることとなり、それwasが同じくらい多く意味するのは、eben so=als(それが)表象することが不可能であるか、少なくとも私にとって無であるからである。>
ロックのideaではない。観念とは訳せない。意識しているかどうかは関係ない。考えるは直観するとは違って常に時間的。夢が一つのまとまりであること。まとまりのあるものとしての表象。過去の
手あかの付いていない表象=私の表象ではないが私の表象になり得る。
konnen?私の表象であるには違いが、
表象不可能
無:
思考不可能なもの:矛盾しているもの、
思考可能:現象のもの、論理的に可能なもの、
Diejenige Vorstellung, die vor allem Denken gegeben sein kann, heißt Anschauung.
<全ての思考の前に与えられうるような表象は直観という。>
(ここでの)表象=表象可能。
kそのような表象とはまったく考えることができない表象ではなく、[私は考える]という表象。でなければ時空間は私のとって無となってしまう。時空間も統覚によって一つに綜合的統一されているのではないのか。時空間は思考の前に与えられているのに表象であるのは、私の表象に伴いえ、考えることのできるものであるから。時空間の表象は時空間そのものではない。メタ的に時空間を考えてもそれは時空間の内で考えているのだから時空間そのものは考えられえない。
k純粋統覚は直観か。だとして、感性的純粋直観(時空間)とは別の直観があることになるのか。いや、私が考えるにそもそもの時空間こそが全ての表象を伴いうる私の統覚ではなかろうか。
Also hat alles Mannigfaltige der Anschauung eine notwendige Beziehung auf das: Ich denke, in demselben Subjekt, darin dieses Mannigfaltige angetroffen wird.
<それゆえ直観の全ての多様は"私は考える"と必然的に関係を持っている、そのうちにこの多様が出会わられるその[私は考える]という主体のうちで。>
見つけられるという訳は不適切。なぜならもしそうであれば主体に多様が含まれることになってしまう。私の中に変化と不変化なものがある。
渋谷春義。牧野。石川文康。Docekal(Wien)カントは男性主義なのでフェミニズムにはあまり使われないのだが「内なる身体」
Diese Vorstellung aber ist ein Aktus der Spontaneität, d.i. sie kann nicht als zur Sinnlichkeit gehörig angesehen werden. (gehörig zu et3に所属する、の一部をなす)(ansehen et4を als(fur) et4と見なす、考える)
<しかし、この表象Ich denkeは自発性の作用である、つまりこれ(表象)は感性に属するとは考えられえない。>
Vorstellung�表象されたもの、�表象すること
Ich nenne sie die reine Apperzeption, um sie von der empirischen zu unterscheiden, oder auch die ursprüngliche Apperzeption, weil sie dasjenige Selbstbewußtsein ist, was, indem es die Vorstellung Ich denke hervorbringt,(引き起こす) die alle anderen muß� begleiten können, und in allem Bewußtsein ein und dasselbe(同じ) ist�, von keiner(Vorstellung Ich denke) weiter begleitet werden kann�.
<私はその(表象)を経験的なそれと区別するために純粋統覚やまた根源的な(⇔派生的)統覚と名づける。なぜならその(表象)は、私は考えるという表象が引き起こす(indem)ことによって、すべての他の(表象)に伴いえなければならず�、そしてすべての意識において同様であり�、他のどんな([私は考える]という表象)をそれ以上伴いられえない、自己意識である�。>
k他のどんな表象をもそれ以上伴いえないもの?
フッサールの超越論的主観(初期)判断を確定する働きが知りたかった、永井均の<わたし>、カントの場合は判断の確定はすでに決まっていた。中世では普遍論争など論理学が発達してきた。しかし経験科学の発達から近代哲学では論理学は顧みられなかった。現代では論理哲学や言語哲学など論理学は再びチコブラーエ(実験科学者はデータをたくさん集める)ケプラー(理論天体学)と同じ時代の人。理論的な前提にみなとらわれて実験等を繰り返すので、科学は発達しにくい。事実を認定する機構が事実を決定する。
経験的統覚:そのつどそのつどの変化する私。身体を持った私。
他人の統覚は純粋統覚でもないし、経験的統覚ですらもない。
純粋統覚はメタフィジックスであり、それは想定するしかない。想定上、存在すると考えるしかない。
Ich nenne auch die Einheit derselben die transzendentale Einheit des Selbstbewußtseins, um die Möglichkeit der Erkenntnis a priori aus ihr zu bezeichnen.
<私はまたそれ(意識)の統一を自己意識の超越論的統一と名づける、アプリオリな認識の可能性をその(統一)から(つまりその統一を基にして)特徴づけるるために。>
transzendent: 経験は超越しない(経験の中にあるが)が経験を可能にする。プロレゴーメナにある。
理念はまさにtranszendent経験を超越する。経験の内にはない。
絵と額縁。
Denn die mannigfaltigen Vorstellungen, die in einer gewissen Anschauung gegeben werden, würden nicht insgesamt(<全部で、ひっくるめて) meine Vorstellungen sein, wenn sie nicht insgesamt zu einem Selbstbewußtsein gehörten,
なぜなら特定の直観において与えられる多様の諸表象は全部まとめて私の表象ではないのであろうから、もしも表象がすべて自己意識に属していないのだとしたら、>
d.i. als meine Vorstellungen (ob ich mich ihrer gleich nicht als solcher bewußt bin) müssen sie doch der Bedingung notwendig gemäß(gemäß et3 sein従って、適した) sein, unter der sie allein in einem allgemeinen Selbstbewußtsein zusammenstehen können, weil sie sonst(さもなくば) nicht durchgängig(一貫した、普遍的な、例外の無い) mir angehören(属する) würden.
<つまり、私の表象として(ob gleich (譲歩の文)私がその(表象)を同じくそのようなものとして意識しないにも関わらず)その(表象)は必然的に条件(アプリオリな綜合判断=純粋悟性の綜合的原則としての直観の公理?)に従わなければならないのであり、その(条件)のもとでのみその(表象)は一般的自己意識においてのみ(諸表象が)共に成立しうる。なぜなら、さもなくば、表象が一貫して私に属さないだろうからである。>
青くて四角いものを青という表象と四角いという表象とを共に表象として意識できる。
Aus dieser ursprünglichen Verbindung läßt sich vieles folgern.(aus et3から et4を推論する)
<この根源的な結合から多くのものが推論される。>
日常経験の観察から哲学は始まる。アインシュタインの時間論を知らずして、物理学を基礎づけるカントの時間論を語ってもいいのか。
<"私は考える"は全ての私の表象に伴いえなければならない>
私は考えるは表象を可能にはするが創造はしない。
Das Ichという言葉を使うと、自我を実体化してしまう。自我は機能的な存在。事物の生成の原理。
● denn sonst(そうでなければ) würde etwas in mir vorgestellt werden, was garnicht gedacht werden könnte, welches eben so viel heißt, als die Vorstellung würde entweder unmöglich, oder wenigstens für mich nichts sein. (Das ist eben so.それは要するにそうなのだ〈どうしようもない〉)
<なぜなら、そうでなければ、was-etwasまったく考えられえないものが私において表象されることとなり、それwasが同じくらい多く意味するのは、eben so=als(それが)表象することが不可能であるか、少なくとも私にとって無であるからである。>
ロックのideaではない。観念とは訳せない。意識しているかどうかは関係ない。考えるは直観するとは違って常に時間的。夢が一つのまとまりであること。まとまりのあるものとしての表象。過去の
手あかの付いていない表象=私の表象ではないが私の表象になり得る。
konnen?私の表象であるには違いが、
表象不可能
無:
思考不可能なもの:矛盾しているもの、
思考可能:現象のもの、論理的に可能なもの、
Diejenige Vorstellung, die vor allem Denken gegeben sein kann, heißt Anschauung.
<全ての思考の前に与えられうるような表象は直観という。>
(ここでの)表象=表象可能。
kそのような表象とはまったく考えることができない表象ではなく、[私は考える]という表象。でなければ時空間は私のとって無となってしまう。時空間も統覚によって一つに綜合的統一されているのではないのか。時空間は思考の前に与えられているのに表象であるのは、私の表象に伴いえ、考えることのできるものであるから。時空間の表象は時空間そのものではない。メタ的に時空間を考えてもそれは時空間の内で考えているのだから時空間そのものは考えられえない。
k純粋統覚は直観か。だとして、感性的純粋直観(時空間)とは別の直観があることになるのか。いや、私が考えるにそもそもの時空間こそが全ての表象を伴いうる私の統覚ではなかろうか。
Also hat alles Mannigfaltige der Anschauung eine notwendige Beziehung auf das: Ich denke, in demselben Subjekt, darin dieses Mannigfaltige angetroffen wird.
<それゆえ直観の全ての多様は"私は考える"と必然的に関係を持っている、そのうちにこの多様が出会わられるその[私は考える]という主体のうちで。>
見つけられるという訳は不適切。なぜならもしそうであれば主体に多様が含まれることになってしまう。私の中に変化と不変化なものがある。
渋谷春義。牧野。石川文康。Docekal(Wien)カントは男性主義なのでフェミニズムにはあまり使われないのだが「内なる身体」
Diese Vorstellung aber ist ein Aktus der Spontaneität, d.i. sie kann nicht als zur Sinnlichkeit gehörig angesehen werden. (gehörig zu et3に所属する、の一部をなす)(ansehen et4を als(fur) et4と見なす、考える)
<しかし、この表象Ich denkeは自発性の作用である、つまりこれ(表象)は感性に属するとは考えられえない。>
Vorstellung�表象されたもの、�表象すること
Ich nenne sie die reine Apperzeption, um sie von der empirischen zu unterscheiden, oder auch die ursprüngliche Apperzeption, weil sie dasjenige Selbstbewußtsein ist, was, indem es die Vorstellung Ich denke hervorbringt,(引き起こす) die alle anderen muß� begleiten können, und in allem Bewußtsein ein und dasselbe(同じ) ist�, von keiner(Vorstellung Ich denke) weiter begleitet werden kann�.
<私はその(表象)を経験的なそれと区別するために純粋統覚やまた根源的な(⇔派生的)統覚と名づける。なぜならその(表象)は、私は考えるという表象が引き起こす(indem)ことによって、すべての他の(表象)に伴いえなければならず�、そしてすべての意識において同様であり�、他のどんな([私は考える]という表象)をそれ以上伴いられえない、自己意識である�。>
k他のどんな表象をもそれ以上伴いえないもの?
フッサールの超越論的主観(初期)判断を確定する働きが知りたかった、永井均の<わたし>、カントの場合は判断の確定はすでに決まっていた。中世では普遍論争など論理学が発達してきた。しかし経験科学の発達から近代哲学では論理学は顧みられなかった。現代では論理哲学や言語哲学など論理学は再びチコブラーエ(実験科学者はデータをたくさん集める)ケプラー(理論天体学)と同じ時代の人。理論的な前提にみなとらわれて実験等を繰り返すので、科学は発達しにくい。事実を認定する機構が事実を決定する。
経験的統覚:そのつどそのつどの変化する私。身体を持った私。
他人の統覚は純粋統覚でもないし、経験的統覚ですらもない。
純粋統覚はメタフィジックスであり、それは想定するしかない。想定上、存在すると考えるしかない。
Ich nenne auch die Einheit derselben die transzendentale Einheit des Selbstbewußtseins, um die Möglichkeit der Erkenntnis a priori aus ihr zu bezeichnen.
<私はまたそれ(意識)の統一を自己意識の超越論的統一と名づける、アプリオリな認識の可能性をその(統一)から(つまりその統一を基にして)特徴づけるるために。>
transzendent: 経験は超越しない(経験の中にあるが)が経験を可能にする。プロレゴーメナにある。
理念はまさにtranszendent経験を超越する。経験の内にはない。
絵と額縁。
Denn die mannigfaltigen Vorstellungen, die in einer gewissen Anschauung gegeben werden, würden nicht insgesamt(<全部で、ひっくるめて) meine Vorstellungen sein, wenn sie nicht insgesamt zu einem Selbstbewußtsein gehörten,
なぜなら特定の直観において与えられる多様の諸表象は全部まとめて私の表象ではないのであろうから、もしも表象がすべて自己意識に属していないのだとしたら、>
d.i. als meine Vorstellungen (ob ich mich ihrer gleich nicht als solcher bewußt bin) müssen sie doch der Bedingung notwendig gemäß(gemäß et3 sein従って、適した) sein, unter der sie allein in einem allgemeinen Selbstbewußtsein zusammenstehen können, weil sie sonst(さもなくば) nicht durchgängig(一貫した、普遍的な、例外の無い) mir angehören(属する) würden.
<つまり、私の表象として(ob gleich (譲歩の文)私がその(表象)を同じくそのようなものとして意識しないにも関わらず)その(表象)は必然的に条件(アプリオリな綜合判断=純粋悟性の綜合的原則としての直観の公理?)に従わなければならないのであり、その(条件)のもとでのみその(表象)は一般的自己意識においてのみ(諸表象が)共に成立しうる。なぜなら、さもなくば、表象が一貫して私に属さないだろうからである。>
青くて四角いものを青という表象と四角いという表象とを共に表象として意識できる。
Aus dieser ursprünglichen Verbindung läßt sich vieles folgern.(aus et3から et4を推論する)
<この根源的な結合から多くのものが推論される。>
日常経験の観察から哲学は始まる。アインシュタインの時間論を知らずして、物理学を基礎づけるカントの時間論を語ってもいいのか。
Nämlich diese durchgängige Identität der Apperzeption eines in der Anschauung gegebenen Mannigfaltigen, enthält eine Synthesis der Vorstellungen, und ist nur durch das Bewußtsein dieser Synthesis möglich.
<つまり(要するに)、直観において与えられた一多様の統覚のこの一貫した同一性は、表象の綜合を含み、そして、この綜合の意識を通してのみ可能である。>
k一多様とは今ここのこの私に与えられる多様は総合されているので一つであるということか。
意識が同一性を生み出し、表象の綜合を可能にする。同一性から意識を引き出すことはできる。ここに飛躍があるのではないか。分析から導き出す。表象そのものではなく、表象を総合するという働き
Denn das empirische Bewußtsein, welches verschiedene Vorstellungen begleitet, ist an sich zerstreut(うわのそらの、散らばっている) und ohne Beziehung auf die Identität des Subjekts.
<なぜなら、様々な表象を伴う経験的な意識はそれ自身バラバラであり、主観の同一性における関係を持たない。>
統覚が同一性を生み出した。
フロイトによる夢判断を思う。ここでは一つの意識においても同じ対象がばらばらになっているということか。しかしながら、夢においても唯一の私において統一されているのは確かではないか。
★Diese Beziehung geschieht(geschehen) also dadurch noch nicht, daß ich jede Vorstellung mit Bewußtsein begleite, sondern daß ich eine zu der anderen hinzusetze und mir der Synthesis derselben bewußt bin. (jm bewusst seinによくわかっている、自覚している)
<したがって、この関係は[私は各表象を意識とともに伴うこと]ではなく、むしろ[私は別のものに対して或る(表象)を他の表象にを付け加え、私にまさにそれの綜合(しているということ)を自覚するということ]によって、引き起こされる。>
〈わたし〉は思考の対象にならない。
Also nur dadurch, daß ich ein Mannigfaltiges gegebener Vorstellungen in einem Bewußtsein verbinden kann, ist es möglich, daß ich mir die Identität des Bewußtseins in diesen Vorstellungen selbst vorstelle,
<したがって[私が与えられた諸表象の多様を一つ意識の内で結びつけうること]によってのみ[私が意識の同一性をこの諸表象自身において表象(想像)すること]は可能である>
d.i. die analytische Einheit der Apperzeption ist nur unter der Voraussetzung irgendeiner synthetischen möglich*.
つまり、統覚の分析的統一は何かある綜合的(統一)の前提のもとにのみ可能である
綜合的統一がある
●Der Gedanke: diese in der Anschauung gegebenen Vorstellungen gehören mir insgesamt zu, heißt demnach(deshalb) soviel, als ich vereinige sie in einem Selbstbewußtsein, oder kann sie wenigstens darin vereinigen, und ob er gleich selbst noch nicht das Bewußtsein der Synthesis der Vorstellungen ist, so setzt er doch die Möglichkeit der letzteren voraus,
直観に与えられた諸表象が全て私に属するという思想(考え)は従って、私がその(表象)がある自己意識に統一する、あるいは少なくとも表象をその(自己意識の)内に統一しうる、そしてer(自己意識)がそれ自身、諸表象の綜合の意識でないとしても、そのようにer(自己意識)は後者(表象の綜合)の可能性を前提している。soviel als、ob gleich
d.i. nur dadurch, daß ich das Mannigfaltige derselben in einem Bewußtsein begreifen(verstehen) kann, nenne ich dieselben insgesamt meine Vorstellungen;
つまり私は当の多様を或る意識において把握(包括)しうることを通して、私はそれ(表象)を総じて私の表象と名づける。
denn sonst würde ich ein so vielfarbiges(多色の多彩な) verschiedenes Selbst haben, als ich Vorstellungen habe, deren ich mir bewußt bin.
なぜなら、そうでなければ、私は多彩で様々な一つの自己を持つことになるであろうからだ、私が[私が私に意識されているところの]諸表象を持つときには。als 同等比較
正確には自覚していなくても認知されている限りでと考えるのが妥当であろう。
Synthetische Einheit des Mannigfaltigen der Anschauungen, als a priori gegeben, ist also der Grund der Identität der Apperzeption selbst, die a priori allem meinem bestimmten Denken vorhergeht.
<アプリオリに与えられたもの(所与の)としての直観の多様の綜合的統一は、したがって[アプリオリに全ての私の特定の思考に先行する]統覚自身の同一性の根拠である。>
als a priori gegebenアプリオリに与えられるのは何か。多様?直観の多様ならば数学しか残らなくなる。誰から与えられるのか?
道徳の形而上学、根源的取得
Verbindung liegt aber nicht in den Gegenständen, und kann von ihnen nicht etwa durch Wahrnehmung entlehnt(借用する) und in den Verstand dadurch allererst aufgenommen werden, sondern ist allein eine Verrichtung des Verstandes, der selbst nichts weiter ist, als das Vermögen, a priori zu verbinden, und das Mannigfaltige gegebener Vorstellungen unter Einheit der Apperzeption zu bringen, welcher Grundsatz der oberste im ganzen menschlichen Erkenntnis ist.
<しかし、結合は諸対象にはなく、その(諸対象)から例えば知覚を通して借用され、それ(知覚)を通して初めて悟性に受け取られえるのではなく、(結合は)単に[アプリオリに結合する能力[与えられた表象の多様を統覚の統一のもとにもたらす能力]である以外の何物でもない]悟性の秩序づけであり、のである、この(統一の)原則は全ての人間の認識における最上の原則である。>(welch=前文の内容または中世単数形の不定代名詞などを受けて=was(Er zeigt sich plötzlich, welches(=was) uns überraschte))
結合:カテゴリーと減少
* Die analytische Einheit des Bewußtseins hängt allen gemeinsamen Begriffen, als solchen, an, z.B. wenn ich mir rot überhaupt denke, so stelle ich mir dadurch eine Beschaffenheit vor, die (als Merkmal) irgendworan angetroffen, oder mit anderen Vorstellungen verbunden sein kann; also nur vermöge einer vorausgedachten möglichen synthetischen Einheit kann ich mir die analytische vorstellen.
<意識の分析的統一はつぎのようなものとしての全ての一般的概念に依存する。例えば、私が赤一般を考えるとき私は[メルクマール(特徴、徴標)としてどこかで現われる、あるいは他の表象と結合されてありうる]或る性質を表象(想像)する。従って唯一先行して考えられた可能な綜合的統一のおかげで私は分析的な(統一)を表象(想像)しうるのである。>
赤色を見たことのない人は
●Eine Vorstellung, die als verschiedenen gemein gedacht werden soll, wird als zu solchen gehörig angesehen, die außer ihr noch etwas Verschiedenes an sich haben, folglich muß sie in synthetischer Einheit mit anderen (wenngleich nur möglichen Vorstellungen) vorher gedacht werden, ehe ich die analytische Einheit des Bewußtseins, welche sie zum conceptus communis macht, an ihr denken kann.
<異なった物(さまざまな赤)として共通に考えるべき一表象は[ihr(その赤一般の表象)以外の何か異なったもの(それぞれの赤)それ自体を持っているようなもの]に属しているとみなされる、従って、sieは綜合的統一において別の(唯一可能な表象であろうとも)とともにあらかじめ考えられねばならず、私は[sieが一般概念(ライプニッツの言葉?)へと形成する]意識の分析的統一をihr(表象)において考えられる。>vorherとeheが呼応している。カテゴリー存在論を飛び越えると独断的認識に陥る。
Und so ist die synthetische Einheit der Apperzeption der höchste Punkt, an dem man allen Verstandesgebrauch, selbst die ganze Logik, und, nach ihr, die Transzendental-Philosophie heften muß, ja dieses Vermögen ist der Verstand selbst.
<そしてそのように、統覚の綜合的統一とは[人が全てのそれ自身完全な論理学である論理学にしたがって悟性使用と超越論哲学(批判ではなく、批判の後の形而上学)を留めつける]頂点であり、実に、この能力(統覚の能力)は悟性そのものなのである。>
超越論的哲学よりも超越論哲学の方がいい。カント哲学の常識。先験的哲学。そして超越論哲学はあらゆる学問全体である。
<つまり(要するに)、直観において与えられた一多様の統覚のこの一貫した同一性は、表象の綜合を含み、そして、この綜合の意識を通してのみ可能である。>
k一多様とは今ここのこの私に与えられる多様は総合されているので一つであるということか。
意識が同一性を生み出し、表象の綜合を可能にする。同一性から意識を引き出すことはできる。ここに飛躍があるのではないか。分析から導き出す。表象そのものではなく、表象を総合するという働き
Denn das empirische Bewußtsein, welches verschiedene Vorstellungen begleitet, ist an sich zerstreut(うわのそらの、散らばっている) und ohne Beziehung auf die Identität des Subjekts.
<なぜなら、様々な表象を伴う経験的な意識はそれ自身バラバラであり、主観の同一性における関係を持たない。>
統覚が同一性を生み出した。
フロイトによる夢判断を思う。ここでは一つの意識においても同じ対象がばらばらになっているということか。しかしながら、夢においても唯一の私において統一されているのは確かではないか。
★Diese Beziehung geschieht(geschehen) also dadurch noch nicht, daß ich jede Vorstellung mit Bewußtsein begleite, sondern daß ich eine zu der anderen hinzusetze und mir der Synthesis derselben bewußt bin. (jm bewusst seinによくわかっている、自覚している)
<したがって、この関係は[私は各表象を意識とともに伴うこと]ではなく、むしろ[私は別のものに対して或る(表象)を他の表象にを付け加え、私にまさにそれの綜合(しているということ)を自覚するということ]によって、引き起こされる。>
〈わたし〉は思考の対象にならない。
Also nur dadurch, daß ich ein Mannigfaltiges gegebener Vorstellungen in einem Bewußtsein verbinden kann, ist es möglich, daß ich mir die Identität des Bewußtseins in diesen Vorstellungen selbst vorstelle,
<したがって[私が与えられた諸表象の多様を一つ意識の内で結びつけうること]によってのみ[私が意識の同一性をこの諸表象自身において表象(想像)すること]は可能である>
d.i. die analytische Einheit der Apperzeption ist nur unter der Voraussetzung irgendeiner synthetischen möglich*.
つまり、統覚の分析的統一は何かある綜合的(統一)の前提のもとにのみ可能である
綜合的統一がある
●Der Gedanke: diese in der Anschauung gegebenen Vorstellungen gehören mir insgesamt zu, heißt demnach(deshalb) soviel, als ich vereinige sie in einem Selbstbewußtsein, oder kann sie wenigstens darin vereinigen, und ob er gleich selbst noch nicht das Bewußtsein der Synthesis der Vorstellungen ist, so setzt er doch die Möglichkeit der letzteren voraus,
直観に与えられた諸表象が全て私に属するという思想(考え)は従って、私がその(表象)がある自己意識に統一する、あるいは少なくとも表象をその(自己意識の)内に統一しうる、そしてer(自己意識)がそれ自身、諸表象の綜合の意識でないとしても、そのようにer(自己意識)は後者(表象の綜合)の可能性を前提している。soviel als、ob gleich
d.i. nur dadurch, daß ich das Mannigfaltige derselben in einem Bewußtsein begreifen(verstehen) kann, nenne ich dieselben insgesamt meine Vorstellungen;
つまり私は当の多様を或る意識において把握(包括)しうることを通して、私はそれ(表象)を総じて私の表象と名づける。
denn sonst würde ich ein so vielfarbiges(多色の多彩な) verschiedenes Selbst haben, als ich Vorstellungen habe, deren ich mir bewußt bin.
なぜなら、そうでなければ、私は多彩で様々な一つの自己を持つことになるであろうからだ、私が[私が私に意識されているところの]諸表象を持つときには。als 同等比較
正確には自覚していなくても認知されている限りでと考えるのが妥当であろう。
Synthetische Einheit des Mannigfaltigen der Anschauungen, als a priori gegeben, ist also der Grund der Identität der Apperzeption selbst, die a priori allem meinem bestimmten Denken vorhergeht.
<アプリオリに与えられたもの(所与の)としての直観の多様の綜合的統一は、したがって[アプリオリに全ての私の特定の思考に先行する]統覚自身の同一性の根拠である。>
als a priori gegebenアプリオリに与えられるのは何か。多様?直観の多様ならば数学しか残らなくなる。誰から与えられるのか?
道徳の形而上学、根源的取得
Verbindung liegt aber nicht in den Gegenständen, und kann von ihnen nicht etwa durch Wahrnehmung entlehnt(借用する) und in den Verstand dadurch allererst aufgenommen werden, sondern ist allein eine Verrichtung des Verstandes, der selbst nichts weiter ist, als das Vermögen, a priori zu verbinden, und das Mannigfaltige gegebener Vorstellungen unter Einheit der Apperzeption zu bringen, welcher Grundsatz der oberste im ganzen menschlichen Erkenntnis ist.
<しかし、結合は諸対象にはなく、その(諸対象)から例えば知覚を通して借用され、それ(知覚)を通して初めて悟性に受け取られえるのではなく、(結合は)単に[アプリオリに結合する能力[与えられた表象の多様を統覚の統一のもとにもたらす能力]である以外の何物でもない]悟性の秩序づけであり、のである、この(統一の)原則は全ての人間の認識における最上の原則である。>(welch=前文の内容または中世単数形の不定代名詞などを受けて=was(Er zeigt sich plötzlich, welches(=was) uns überraschte))
結合:カテゴリーと減少
* Die analytische Einheit des Bewußtseins hängt allen gemeinsamen Begriffen, als solchen, an, z.B. wenn ich mir rot überhaupt denke, so stelle ich mir dadurch eine Beschaffenheit vor, die (als Merkmal) irgendworan angetroffen, oder mit anderen Vorstellungen verbunden sein kann; also nur vermöge einer vorausgedachten möglichen synthetischen Einheit kann ich mir die analytische vorstellen.
<意識の分析的統一はつぎのようなものとしての全ての一般的概念に依存する。例えば、私が赤一般を考えるとき私は[メルクマール(特徴、徴標)としてどこかで現われる、あるいは他の表象と結合されてありうる]或る性質を表象(想像)する。従って唯一先行して考えられた可能な綜合的統一のおかげで私は分析的な(統一)を表象(想像)しうるのである。>
赤色を見たことのない人は
●Eine Vorstellung, die als verschiedenen gemein gedacht werden soll, wird als zu solchen gehörig angesehen, die außer ihr noch etwas Verschiedenes an sich haben, folglich muß sie in synthetischer Einheit mit anderen (wenngleich nur möglichen Vorstellungen) vorher gedacht werden, ehe ich die analytische Einheit des Bewußtseins, welche sie zum conceptus communis macht, an ihr denken kann.
<異なった物(さまざまな赤)として共通に考えるべき一表象は[ihr(その赤一般の表象)以外の何か異なったもの(それぞれの赤)それ自体を持っているようなもの]に属しているとみなされる、従って、sieは綜合的統一において別の(唯一可能な表象であろうとも)とともにあらかじめ考えられねばならず、私は[sieが一般概念(ライプニッツの言葉?)へと形成する]意識の分析的統一をihr(表象)において考えられる。>vorherとeheが呼応している。カテゴリー存在論を飛び越えると独断的認識に陥る。
Und so ist die synthetische Einheit der Apperzeption der höchste Punkt, an dem man allen Verstandesgebrauch, selbst die ganze Logik, und, nach ihr, die Transzendental-Philosophie heften muß, ja dieses Vermögen ist der Verstand selbst.
<そしてそのように、統覚の綜合的統一とは[人が全てのそれ自身完全な論理学である論理学にしたがって悟性使用と超越論哲学(批判ではなく、批判の後の形而上学)を留めつける]頂点であり、実に、この能力(統覚の能力)は悟性そのものなのである。>
超越論的哲学よりも超越論哲学の方がいい。カント哲学の常識。先験的哲学。そして超越論哲学はあらゆる学問全体である。
Dieser Grundsatz, der notwendigen Einheit der Apperzeption, ist� nun zwar selbst identisch, mithin ein analytischer Satz, erklärt� aber doch eine Synthesis des in einer Anschauung gegebenen Mannigfaltigen als notwendig, ohne welche jene, durchgängige Identität des Selbstbewußtseins nicht gedacht werden kann.
統覚の必然的統一のこの原則はそれ自身同一であり、したがって、しかし、分析的命題であり、直観に与えられた多様の綜合を必然的なものとして説明する、綜合なしに自己意識の一貫した自己同一性を考えられえない。
統覚の同一の根拠が総合的統一
Denn durch das Ich, als einfache Vorstellung, ist nichts Mannigfaltiges gegeben; in der Anschauung, die davon unterschieden ist, kann es nur gegeben und durch Verbindung in einem Bewußtsein gedacht werden.
なぜなら、自我を通して、単一の表象としての、は多様は何物も与えたれない、それ(自我)と異なる直観(事物を直観する場合にはor直観された対象の場合には)においてそれ(多様)はただ与えられうるにすぎないのであって、(自己意識の下で現象と悟性概念との)結合を通して或る意識において考えられる。
Ein Verstand, in welchem durch das Selbstbewußtsein zugleich alles Mannigfaltige gegeben würde, würde anschauen; der unsere (Verstand) kann nur denken und muß in den Sinnen die Anschauung suchen.
(もしも)自己意識を通して同時に全ての多様を与えられるだろうところの悟性(があるとすれば)は直観するだろう我々の考えることができて、感官において直観(の対象)を探さなければならない。
Anschauungの二つの意味に注意!直観作用、直観される対象。
Ich bin mir also des identischen Selbst bewußt, in Ansehung des Mannigfaltigen der mir in einer Anschauung gegebenen Vorstellungen, weil ich sie insgesamt meine Vorstellungen nenne, die eine ausmachen.(in Ansehung et2)
それゆえ私は同一的な自己を意識している、私に直観において与えられた表象の多様に関して(を考慮に入れて)、なぜなら私は全てまとめて一つのものを形成している私の表象と名づける。
Das ist aber soviel, als, daß ich mir einer notwendigen Synthesis derselben a priori bewußt bin, welche die ursprüngliche synthetische Einheit der Apperzeption heißt, unter der alle mir gegebenen Vorstellungen stehen, aber unter die sie auch durch eine Synthesis gebracht werden müssen.
しかしそれは私がそれ(表象)の[統覚の根源的綜合的統一を意味する]一つの必然的綜合をアプリオリに意識しており、、ということと同等である、私に与えられた全ての表象のもとに立つがしかしsieは或る綜合を通して使われえなければならない。
統覚のもとへとあらゆる私に与えられた諸表象は与えられた表象は立っているのであるが、しかし統覚の下でまた統一はもたらされえなければならない。
同等比較
統覚の必然的統一のこの原則はそれ自身同一であり、したがって、しかし、分析的命題であり、直観に与えられた多様の綜合を必然的なものとして説明する、綜合なしに自己意識の一貫した自己同一性を考えられえない。
統覚の同一の根拠が総合的統一
Denn durch das Ich, als einfache Vorstellung, ist nichts Mannigfaltiges gegeben; in der Anschauung, die davon unterschieden ist, kann es nur gegeben und durch Verbindung in einem Bewußtsein gedacht werden.
なぜなら、自我を通して、単一の表象としての、は多様は何物も与えたれない、それ(自我)と異なる直観(事物を直観する場合にはor直観された対象の場合には)においてそれ(多様)はただ与えられうるにすぎないのであって、(自己意識の下で現象と悟性概念との)結合を通して或る意識において考えられる。
Ein Verstand, in welchem durch das Selbstbewußtsein zugleich alles Mannigfaltige gegeben würde, würde anschauen; der unsere (Verstand) kann nur denken und muß in den Sinnen die Anschauung suchen.
(もしも)自己意識を通して同時に全ての多様を与えられるだろうところの悟性(があるとすれば)は直観するだろう我々の考えることができて、感官において直観(の対象)を探さなければならない。
Anschauungの二つの意味に注意!直観作用、直観される対象。
Ich bin mir also des identischen Selbst bewußt, in Ansehung des Mannigfaltigen der mir in einer Anschauung gegebenen Vorstellungen, weil ich sie insgesamt meine Vorstellungen nenne, die eine ausmachen.(in Ansehung et2)
それゆえ私は同一的な自己を意識している、私に直観において与えられた表象の多様に関して(を考慮に入れて)、なぜなら私は全てまとめて一つのものを形成している私の表象と名づける。
Das ist aber soviel, als, daß ich mir einer notwendigen Synthesis derselben a priori bewußt bin, welche die ursprüngliche synthetische Einheit der Apperzeption heißt, unter der alle mir gegebenen Vorstellungen stehen, aber unter die sie auch durch eine Synthesis gebracht werden müssen.
しかしそれは私がそれ(表象)の[統覚の根源的綜合的統一を意味する]一つの必然的綜合をアプリオリに意識しており、、ということと同等である、私に与えられた全ての表象のもとに立つがしかしsieは或る綜合を通して使われえなければならない。
統覚のもとへとあらゆる私に与えられた諸表象は与えられた表象は立っているのであるが、しかし統覚の下でまた統一はもたらされえなければならない。
同等比較
0 件のコメント:
コメントを投稿